機会平等と雇用における割当制度 Equality of Opportunity and a Type of Quota System in Employment 星加良司(東京大学) 要旨:  本稿の目的は、障害者雇用における割当制度に焦点を当て、それが機会平等の観点から規範的に正当化しうるものか否かについて検討することである。規範的な正当化可能性を主題にする理由は、制度そのものは現に存在していたとしても、仮にそれが社会規範から逸脱したものとして理解されるならば、施策の対象とされる人々にスティグマを付与することにつながり、むしろ負の効果をもたらすと考えられるからだ。  検討の結果、条件平準化原理に基づく機会平等理念の中でも、とりわけ厳格な責任‐平等主義の立場を採るRoemerの構想に依拠することによって、割当雇用制度に対する正当化根拠が得られることが示される。しかし、現行の日本の割当雇用制度には、この構想によっては正当化されない部分があるため、その点の改変が必要であることが明らかになる。さらには、機会平等理念を支える基礎的な概念の理解をめぐって、障害分野に特有の理論的困難の存在も示唆されることになる。 キーワード: 機会平等、責任‐平等主義、割当雇用、労働市場 1.はじめに  近代の資本主義的な生産過程において、労働力としての個人が焦点化され、それに適した(医学的な)身体が規範化されることによってディスアビリティ・カテゴリーが産出されたとするテーゼ(Oliver 1990, 1996)は、障害学にとって最も重要な基礎的アイディアの1つである。それは、「障害者」が、市場経済における労働との不適合を中核的な要素として特徴付けられた集団であることを示唆する。このことを踏まえると、障害学にとって労働市場をめぐる問題は特別な重要性を持つことになる。たとえば、歴史的に排除されてきた労働市場への再包摂を求めるに当たって、それをどのように再編・修正・規制することが可能なのか。また、労働市場の中で、あるいはそれとは相対的に独立したシステムの中で、いかにして障害者にとって必要な「財と権利と尊厳の分配」(石川 2002)を求めていくことが可能なのか。これらは、今日でも障害問題の中心的なテーマの一部であり続けている。  本稿では、障害者を労働市場に包摂するための1つの手段としての「割当雇用制度」に着目し、その規範的正当化の可能性について考える。欧州にも類似の制度があるが(ドイツ、フランス等)、日本には、「障害者の雇用促進等に関する法律」によって規定された割当雇用制度がある。これは、一定割合以上の障害者を雇用することを事業主に義務付けるものであり、現在民間企業には1.8%の雇用率(法定雇用率)の達成が求められている1)。この法定雇用率は、常用労働者数と失業者数の合計に占める、障害のある常用労働者数と失業者数の合計の割合を根拠として算定されている。失業者とは求職中の非就労者のことだから、結局この数字は、現に就労意欲を持って活動(就労であれ求職活動であれ)している人口に占める障害者の比率を示している。このように理解すると、この制度の基本的な政策目標は、現に就労意欲を持って活動しているならば、障害者であっても非障害者であっても同程度の割合で雇用される、という状態を実現することであると考えることができる2)。この目標達成の手段としては、事業主がこの義務に違反した場合の法的な罰則は設けられていないものの、法定雇用率未達成の事業主から金銭を徴収する「雇用納付金制度」を採用するとともに、未達成企業名を公表するという仕組みを導入することによって、雇用義務の履行へのインセンティヴが与えられている3)。  このように、割当雇用制度は障害者の雇用機会を量的に拡大し、実質的に社会参加を促進するという明確な目的を持っている。しかし、施策の正当化根拠に着目すると、「社会的弱者」に対する特別な優遇措置という色合いが強い。前述の「障害者の雇用促進等に関する法律」でも、事業主が有しているのは「社会連帯の理念に基づき、障害者である労働者が有為な職業人として自立しようとする努力に対して協力する責務」であると規定されており、権利保障や平等な待遇の実現といった理念は一切掲げられていない。また、このように結果としての「平等」な状態をめざすような種類の施策に対しては、雇用平等の法理の基礎にある機会平等概念を超える、あるいはそれとはなじまないものであると評価する論者も多い(関川 1999, 長谷川 2008)4)。  仮にこのことを是認するなら、割当雇用制度は強力な正当化根拠の候補を1つ失うことになる。では、割当雇用制度を機会平等政策の文脈に位置付けることは、本当に不可能なのだろうか? 2.社会規範としての機会平等 2.1.問いの文脈  議論を始めるに当たって、まず機会平等理念による割当雇用制度の正当化可能性を探求することの意義を確認しておこう。  一般に、特定の施策の推進に当たって、それが広く共有された社会規範に適合的であるか否かは、重要な意味を持っている。第一に、民主的な体制における政策の実施には、多数派の同意を調達することがある程度必要となるから、そのために多くの人々が共有している社会規範に訴えることは有効な手段となりうる。第二に、仮に社会規範との結びつきが希薄だとすると、施策の対象となる人々が、社会規範からの逸脱によって「恩恵」を受けているものとして捉えられ、スティグマ化されることによって、むしろ負の政策効果が生じる恐れがある。この効果には、他者による障害者へのステレオタイプや敵意を助長すること、障害者自身による自己卑下や罪悪感を引き起こすことなどが含まれる。  この第二のポイントを踏まえると、割当雇用が現に制度として存在しているというだけでは十分でなく、それがより広く共有されたより強力な社会規範によって根拠付けられることの重要性が分かる。では、障害者の社会参加を進める施策の正当化根拠として、広範にコンセンサスが得られている強力な規範とは何か。当然その答えは、文化的・歴史的な文脈に応じて異なるものになるが、機会平等の理念がその有力な候補の1つであることは疑いえないだろう。以上を認めるなら、割当雇用制度と機会平等理念との整合性を問うことには、重要な意味があるといえる。 2.2.機会平等のヴァリエーション  ただし、機会平等理念の意味内容には様々なヴァリエーションがあり、それによって具体的施策に関する規範的評価は異なってくる。そのため、機会平等理念による正当化可能性について論じる前に、まずは機会平等概念を分節化しておく必要がある。  非常に大雑把にいえば、機会平等とは、個人の意欲や能力に応じて等しい取り扱いがなされることを要請するものだといえるが、その中でも以下の2つの解釈を区別することができる。 T:地位に対する競争においては、求められるパフォーマンスに関連する特質を有する人々が同等に扱われるよう、その特質のみを評価対象にしなければならない U:地位に対する競争においては、関連する潜在力を有する人々が結果として同等に扱われるよう、諸個人の間で競争条件を平準化しなければならない  ここではRoemer(2000)の用語法に倣ってTを「メリット原理」、Uを「条件平準化原理」と呼ぶことにする。ここで注目したいのは、メリット原理では「パフォーマンス」に、条件平準化原理では「潜在力」に焦点が当てられていることである。別の言い方をすれば、前者では顕在化している能力のみが評価対象にされるのに対し、後者では何らかの理由で潜在化している能力を含めて、その個人が特定の条件下では発揮しえたはずの能力の全体が評価対象にされるということである。  では、障害者の雇用問題について考える際、我々が前提としている機会平等理念はどちらの種類に属するものだろうか。もちろん歴史的には、メリット原理に基づく機会平等理念が果たした役割は小さくない。確かにその要請は、必要とされる能力があるにもかかわらず、障害を持っているという事実のみをもって直ちに雇用を拒否するような直接差別に対しては、有効なアプローチだったわけだ。しかし、一見「中立的」なものであると見なされる職場環境や雇用慣行が、障害者にとっては適応しづらいものであるために、その中で能力発揮を求められることになる障害者は十分に潜在力を発揮することができず、結果として大きな不利益を被ることがある。この場合、実際に所与の環境においては障害者は能力を顕在化させることができておらず、そこで求められるパフォーマンスに関して劣っていると見なされるのだから、純粋なメリット原理はこうした事態に対して無力である。  しかし、この「中立的」な所与の環境が実は健常者の利用を前提として作られたものであり、その意味で偏った、公正でない条件を課すことになっているという理解は、いまや差別禁止法制をめぐる議論の中で主流になっている。また、支援技術の開発・利用の進展により、そうした環境の改変が技術的に容易になったという事情もあり、可能な範囲で対等な競争条件を整えることについての社会的理解も、徐々に広がってきていると見ることができる。そうだとすれば、障害者雇用に際して条件平準化原理に基礎を置く機会平等理念を採用する必要がある、ということについては概ね同意が得られているといえるのではなかろうか。  それでは、条件平準化原理に基づく機会平等は、どのような施策を正当化することになるのだろうか? 2.3.合理的配慮の射程  この問いへの答えとしてまず思い浮かぶのは、障害者権利条約や各国の差別禁止法で規定された「合理的配慮(ないし合理的調整)」の提供義務である。周知のように、合理的配慮とは、平等な権利行使を可能にするために個別ケースに対して提供される、過度な負担を伴わない配慮のことである。こうした合理的配慮を提供しないことが差別として規定されたこと(合理的配慮の提供が広く義務付けられたこと)には、大きな意義がある。なぜなら、従来の差別禁止法の枠組みにおいて、メリット原理に基づく機会平等を超える措置を求める明示的な規定がなかったのに対し、条件平準化原理に基づく機会平等に踏み込んで、その実現を要請するものであるからだ。  ただし、合理的配慮の提供は、同等の潜在力を持つ人々を等しく扱うという条件平準化原理の要請に照らして、実は必ずしも十分なものではない5)。合理的配慮のアプローチは、既に形成されているにもかかわらず、競争場面における不公正な条件設定によって発揮を妨げられているような潜在力に着目したものである。つまり、一時的に潜在化している能力を掘り起こすことによって、同等のパフォーマンスを期待できることが前提となっているのだ。  しかし、能力の形成期において何らかの要因で潜在力が十分に発展させられなかったような場合はどうだろうか。この場合には、いくらその場で合理的配慮が提供されたとしても求められる能力を発揮することはできないのだから、自らの過去の不運を嘆きつつ諦めるしかないということになる。実際、多くの論者が、こうした領域を雇用における機会平等アプローチの範囲を越えるものとして扱っている。それでは、合理的配慮の提供を義務付けるという施策が、機会平等理念による正当化の臨界点だということになるのだろうか?  しかし、条件平準化原理に基づいて潜在力に焦点を当てる議論も一枚岩ではない。能力の形成期におけるある種の不平等もまた、補正されるべき対象として扱う、機会平等論も存在するのだ。以下では、この立場について検討しよう。 3.構想としての機会平等:Roemerの責任‐平等主義  政治哲学の領域においては、社会的な保障や補償が要請される領域とそうでない領域とを区別する基準に関して、様々な構想が提示されてきた。その中の1つの有力な立場として「責任‐平等主義」というアイディアがある(Dworkin 2000, Cohen 1989, Roemer 1998)。これは、道徳的に恣意的な運に起因する有利/不利は、個人の責任に帰するべきではなく、したがってその点に関しては平等化されるべきだ、という規範的な立場である。個人の責任に帰属される不利については何ら介入する必要はないが、個人の責任を超えたところで生じてしまう不利については、その補正が求められることになる。  中でもJohn E. Roemerは、厳格な責任‐平等主義の立場を採る(Roemer 1998)。彼は、個人のコントロールの及ばない環境と、個人の自律的な選択や努力とを峻別し、個人の責任の範囲は後者に限定されると主張する6)。環境の違いは、道徳的に恣意的な運であり、その結果として生じる不利を個人が甘受させられるのは不当だというわけだ。ここでいう環境には、物理的環境や社会制度のみならず、家庭の背景や文化のほか、遺伝的な性質なども含まれる。つまり、個人の自律的なコントロールの及ばないものはすべて、環境の領域に属するということになる。このように環境の範囲を広く設定した上で、個人の責任の範囲は、達成から環境の影響を取り除いたもの、すなわち個人によって自由に選択された努力であるということになる7)。ここで提示されている機会平等の構想は、環境による影響を完全に排除した競争を求める条件平準化原理に立脚し、地位に対する期待水準は自由に選択された努力のみによって決定されるべきだというものである。  こうした構想を前提に、Roemerは以下のような方法による機会平等の実現を提案する。まず、個人の達成に対する影響の仕方を基準にして、諸個人の置かれている環境を幾つかのタイプに分類した上で、諸個人がどのタイプの環境に属しているのかを特定する。このとき定義上、同一タイプ内に属する個人は環境から同様の影響を受けており、また別タイプに属する個人は環境から異なった影響を受けていることになる。このような条件の下、同一タイプ内の競争には何ら積極的な介入は行われず、結果として生じる達成の格差も許容される。なぜなら、その格差はひとえに個人の自律的な努力によって生じたものだからである。他方、別タイプに属する諸個人間の競争においては、タイプ内におけるパーセンタイルを基準に達成が規定されることになる。つまり、タイプ内における相対的な位置が同じであれば、見かけ上の達成水準や投入している努力量が明らかに違っていたとしても、同一の結果が実現されることになるのだ。これは、別タイプに属する諸個人の間にある見かけ上の達成水準の違いは、環境の影響によって生じていると見なされることによって正当化される8)。  具体的には次のようなことだ。相対的に有利な環境(タイプα)にA〜Dの4人が、相対的に不利な環境(タイプβ)にE〜Hの4人が属しているものとしよう。ここで何らかの地位をめぐって各人を評価するための試験が行われ、8人のスコアはそれぞれ、A:80点、B:70点、C:60点、D:50点、E:50点、F:40点、G:30点、H:20点だったとする。このとき、BとFはそれぞれのタイプ内で75パーセンタイルのスコアを示しているから、この2人は同一の結果を得られなければならない。また、DとEは同一のスコアを示しているが、タイプ内におけるパーセンタイルが異なるため(Dは25パーセンタイル、Eは100パーセンタイル)、2人の得られる結果は異なるものになる。  こうした機会平等の構想に対しては、むしろそれは相対的に不利なタイプに属するとされた人々にスティグマを付与することにつながり、自尊心を傷つけるものだとして批判される(Anderson 1999)。また、雇用選抜がタイプ内のパーセンタイルを基準に決定された場合、少なくとも短期的には労働生産性が確実に低下する、ということもすぐに気づくことだ。しかし、ここでRoemerが行っているのは、機会平等という規範に基づいて政策を組み立てる場合のアルゴリズムであって、その規範が唯一のものであるとか、他の何よりも優先されるべきものだとかいうことまでは意味していない。Roemer自身、機会平等政策の適用範囲は、効率性等の他の社会的価値とのバランスを勘案した社会的選択の問題であることを認めている。したがって、別の価値や規範との関係で機会平等政策の適用が限定される必要性については否定されていないのだから、これらは内在的な批判とはなっていない。ここで強調しておきたいのは、少なくともRoemerの機会平等の構想に依拠した場合には以上で述べたような施策が正当化されるのであり、仮に現実的にはその実施が困難な局面があるとしても、それはその施策が機会平等理念に抵触するという理由からではなく、別の社会規範との関係で機会平等の実現を断念せざるをえないという理由によるのだということである。 4.割当雇用制度の正当化可能性  以上を踏まえると、仮にRoemerの構想を前提にするならば、その正当性をめぐって論争の多いハードなポジティヴ・アクション(ないしアファーマティヴ・アクション)についての解釈も異なってくる。一般にポジティヴ・アクションは、条件平準化原理に基づく機会平等理念を背景に、マイノリティ・グループの社会参加を実質的に進める手法として、様々な分野で展開されている9)。しかし、「割当モデル」や「優遇モデル」(Oppenheimer 1988)といったハードな手法については、それらが機会平等原則に抵触するか否かをめぐって、理論的な論争が続いている。しかし、Roemerの見解に基づけば、環境のタイプが異なる人々に異なる取り扱いをすること自体は全く問題がないばかりか、むしろそれこそが機会平等政策に求められることになる。焦点は、特定の優遇措置を実施すること自体の正当性の問題から、優遇措置を受ける人々が不利な環境のタイプに属するといえるか否か、また優遇措置によって実現されようとしている状態が過剰でないか否か、といった点に移行するのだ。  このことは、障害者雇用における割当制度に関しても基本的に援用することが可能だろう。すなわち、一定の前提が満たされるならば、割当雇用制度は機会平等政策の観点から正当化可能だということである。その前提とは、@施策の対象となる「障害者」が同一のタイプに属する、すなわち環境によって同程度に潜在力の発揮を阻害されている集団であると想定できること、A達成がめざされる雇用率が妥当であること、である。これらが満たされるとすれば、障害者の実雇用率を法定雇用率の水準にまで引き上げようとするハードな施策も、異なる環境のタイプ間の競争条件を平準化する(同一パーセンタイルにある個人が同様の扱いを受けるようにする)機会平等政策の一環として位置付けられることになるのだ。  では、@とAの前提は成立するだろうか。まず@については、この前提は直感的に非現実的である。日本の割当雇用制度では「障害者」は一括して対象とされており、その中での細分化された取り扱いはない。また、「障害者」と「非障害者」以外の区分も設けられていない。ということは、すべての障害者が環境によって同様の影響を受けており、また日本における環境のタイプのヴァリエーションは障害者であるか否かという1点によってのみ分割されていると考えなければ、機会平等政策の要請に十分に応えるものとして正当化することはできない10)。したがって、割当雇用制度を機会平等政策として十全に位置付けるためには、障害者間の多様な環境の違いに配慮したタイプ区分を行うなど、制度の再編が必要であるといえる。  次にAについて。初めに見たように、日本の割当雇用制度で採用されている法定雇用率の算定方法を踏まえると、少なくともその表面的な政策目標は、現に就労意欲を持って活動しているならば、障害者であっても非障害者であっても同程度の割合で雇用される状態の実現だと理解することが可能である。この理解が正しいとすれば、これはまさにRoemer流の機会平等の要請に応えるものであるように見える。しかし、正確にいえば、この目標設定は明らかに過小である。それには幾つかの理由があるが、ここでは、「現に就労意欲を持って活動している」という条件に着目しよう11)。この条件があることによって、就労を希望していても(あるいはかつて希望したことがあったとしても)、現在求職活動をしていない非就労者の数は、算定根拠に含まれない。もちろんこのような人は障害の有無にかかわらず存在しているわけだが、社会環境やインペアメント等の環境の違いを考慮すると、健常者に比べて障害者の方にこうした人の比率が高いことが推定される。そうだとすれば、法定雇用率の算定に当たって、就労意欲のある障害者の人口が環境の影響によって相対的に小さく見積もられていることになり、結果として政策目標が低く抑えられていることになる。したがって、機会平等政策の観点からは、さらに高い雇用率の達成をめざす施策が求められることになりそうだ。  ただし、今述べた論点は、より根源的な問題の存在を示唆している。それは、インペアメントを含めて環境の影響を排除しようとすると、条件平準化原理が着目している「潜在力」という概念の持つ意味が希薄になるのではないかということだ。改めて確認すれば、条件平準化原理が求めているのは、「関連する潜在力を有する人々が結果として同等に扱われる」ことだった。通常このようにいわれる場合の「潜在力」とは、条件さえ整えばパフォーマンスとして顕在化してくるような能力のことだ。しかし、インペアメントやその他の遺伝的性質という環境によって「潜在化」した能力は、基本的に事後的な働きかけによって顕在化することはない。こうした部分をも潜在力の違いとは見なさないRoemerの構想は、潜在力概念を「自律的に努力する能力」という意味へと切り詰める。  もちろん、このような潜在力概念の理解は可能である。しかし、このように限定的な潜在力理解を基盤にして機会平等理念による施策の正当化を行おうとした場合、今度は、そもそも機会平等理念が持っていた社会規範としての強力さが失われてしまう恐れがある。実は、諸分野におけるポジティヴ・アクションの機会平等理念による正当化にしても、諸個人が有する潜在力は本質的に平等であり、それは何らかの社会的働きかけによって顕在化しうるものだという想定に、明示的にか暗黙にか支えられているのだ(Salinas 2003)。  以上を踏まえると、割当雇用制度は、障害者の雇用機会の実質的拡大(Roemerの構想に従えば「平等化」)に貢献しつつ、機会平等の社会規範としての魅力を失わないバランスの中で、政策目標が設定される必要があるといえる。 註 1)国や地方公共団体等には2.1%の法定雇用率が課されている。 2)ただし、一部の専門職等が算定基準から除外されていること、重度障害者については1人につき2人雇用したものと見なすダブルカウント制度が採用されていること、精神障害者の数は実雇用率の算定にのみ加算されていること等の理由から、仮に実雇用率が法定雇用率に達したとしても、純粋な意味で同水準の雇用率が実現していることを意味しない。 3)現実の義務履行状況を見ると、2007年の実雇用率は1.55%に留まっており、法定雇用率の未達成企業は50%を超えている。 4)確かに、日本の割当雇用制度の根拠となったとされるILOの第71号勧告では、「均等な機会の確保」を目的として合理的な割合の障害労働者の雇用を強制する場合があることを示しており、その意味ではこの制度が機会平等理念によって正当化されていると見ることもできる。しかし、ILOによる解説においても、こうした特別措置は「明らかに一時的な性質を備えている」とされている(松井 2008)ことから、この制度そのものが機会平等を体現しているというよりは、本来の機会平等を実現するための過渡的な制度として位置付けられていることは明らかであり、その意味で機会平等理念との結びつきはあくまでも間接的なものである。 5)合理的配慮の提供義務には、「過度な負担にならない範囲」という事業主側の事情を考慮した制約条件がかかっており、この点も機会平等の観点からは限界と見ることができるが、ここではこの論点は扱わない。 6)遠山(2004)は、障害者雇用の文脈で同様のモチーフに基づいた議論を展開しているが、そこで提示された規範的主張は機会平等とは明確に区別される別の原理であるとされており、その点でRoemerの見解とは異なる。 7)ここで注意しておくべきなのは、指標とされるのは実際に投入された努力量ではないということだ。努力するか否かについても環境の影響があるから、そうした部分を取り除いた、純粋に個人の選択の結果なされた努力のみが、評価の対象にされるべきだということである。 8)現実には、タイプによって自律的な努力の水準に差があったり、タイプ内での達成の分布の仕方にばらつきがあったりする可能性はあるだろうが、各タイプ内に十分な数の個人が含まれていると仮定した場合には、タイプ内でのパーセンタイルが同一であれば同程度の自律的努力がなされているものと想定するのが、理論的には合理的である。 9)ポジティヴ・アクションと機会平等との関係については、飯野・星加(2008)で基礎的な整理を行っている。 10)もちろんだからといって、現行の制度についても、漸進的な雇用機会の平等化の手段としての意義まで失われるということにはならない。 11)その他に、註2で触れた、実雇用率と法定雇用率の算定方法に関わる問題もある。 文献 Anderson, E.S., 1999, What is the Point of Equality?, Ethics, 109(2): 287-337. Cohen, G.A., 1989, On the Currency of Egalitarian Justice, Ethics, 99(4): 906-944. Dworkin, R., 2000,Sovereign Virtue:The Theory and Practice of Equality, Harvard University Press. 長谷川珠子, 2008, 「日本における障害を理由とする雇用差別禁止法制定の可能性――障害をもつアメリカ人法(ADA)からの示唆」『日本労働研究雑誌』No.571. 飯野由里子・星加良司, 2008, 「合理的配慮とポジティブ・アクション――差別禁止アプローチの有効性と限界」第5回障害学会大会ポスター報告 石川准, 2002, 「ディスアビリティの削減、インペアメントの変換」石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店: 17-46. Oliver, M., 1990, The Politics of Disablement, Macmillan. ――――, 1996, Understanding Disability: From Theory to Practice, Macmillan. Oppenheimer, D.B., 1988, Distinguishing Five Models of Affirmative Action, 4 Berkeley Women's L. J. 42, 43-50. Roemer, J.E., 1998, Equality of Opportunity, Harvard University Press. ――――, 2000, Equality of Opportunity, K.J. Arrow et al., Meritocracy and Economic Inequality, Princeton University Press: 17-32. Salinas, M.F., 2003, The Politics of Stereotype: Psychology and Affirmative Action, Praeger Pub. 関川芳孝, 1999, 「障害をもつ人に対する雇用平等の理念」荒木兵一郎・中野善達・定藤丈弘編『講座障害をもつ人の人権2 社会参加と機会の平等』有斐閣: 168-195. 遠山真世, 2004, 「障害者の就業問題と社会モデル――能力をめぐる試論」『社会政策研究』4: 163-182.